この頃気になるケルマンラバー

手織り絨毯

何故かペルシャ絨毯5大産地に入っていないケルマンですが、イランの首都テヘランより1000km以上南東に離れた標高1760mの砂漠の町です。東西南北の交通の要所であるケルマンは既にササン朝(224年~)3世紀には要塞都市・アルゲ・バムが建築された歴史ある都市ですが、その後幾度も異国の侵攻に遭いましたが、サファビー朝(1501年~1736年)の宮廷絨毯時代・アッバス1世(1588年~1629年)の隆盛期には絨毯や織物の生産と輸出が奨励されて大いに栄えました。しかし他の産地と同様にサファビー朝の滅亡後には絨毯産業は衰退し産業革命による英ウィルトン織りの発明なども有り絶滅の危機を迎えます。

しかし19世紀後半になるとヨーロッパでのペルシャ絨毯の需要の高まり(機械工業製品への反発・脱却)に答えて1883年ドイツ系英国企業ジーグラー商会のスルタナバードに進出した織物・絨毯製造輸出事業が大成功を収めました。ペルシャ絨毯のデザインを西洋人好みにアレンジして欧米諸国で人気を博しました。スルタナバード一帯は絨毯産業の町となり1920年代にはアメリカンサルークなる大ヒット作が生まれます。
ジーグラー商会の成功を機に他の米・伊・英などの企業も1880年代にはに機械織りに押されて下火となっていたショール織物産業地と言う下地の有ったケルマンにこぞって絨毯製造会社を作り1900年代に向けて一気にケルマン絨毯は復活を遂げ欧米に輸出されました。第一次世界大戦までは欧州へ開戦後は米国へと主たる輸出先を代えてケルマン絨毯の輸出は好調を維持した様ですが、1979年のイラン革命後の米国との国交断絶の影響は米国をお得意先としていたケルマンにとって大きな痛手だった様です。

毛糸を撚糸する前に染色して退色し難く織りも素晴らしいケルマンの絨毯は当時の文献によると諸外国からの評価は非常に高くペルシャ絨毯の特級品として認識されていたようです。

最近立て続けに1920年~と1940年~と思しきケルマンラバー12平米~15平米程を見せられ圧倒されました。かつてケルマン州のラバール村で作られていたことからケルマンラバーと呼ばれる絨毯は、フィールドは小さな花のモチーフで埋め尽くされた楽園を思わせる様な欧米好みの千の(ヘザーレ)花(ゴル)デザインです。現在もケルマンラバーと言う呼び名でケルマン州のラフサンジャンなど各地で華やかな千の花絨毯は作られています。

 

 

この頃気になるケルマンラバーです。


お使いください手織り絨毯
フロムギャッベ

*ペルシャ絨毯5大産地とはいつどのような基準で定められたのでしょうか?ナインやクムが入っているので20世紀後半に定められた様に思いますが、、、? 選定基準は?品質・生産量・知名度・輸出額・・・・
ケルマンはなぜ入っていないのか?

*1937年日本建築学会の雑誌 <窓掛けと敷物>には ケルマンの絨毯はその性質が最も宜しい>

*1880年吉田波斯使節団の古川陸軍工兵大尉の記述には<この国の毧氈(じゅうせん)は最も著名にしてその染色久しきに耐えその組織緻密にしてすこぶる雅致あり欧州人甚だ愛すこれえずど、ケルマン及びクルジスタン地方において製造する物なりこの他駱駝の毛を糊したる厚裀席あり人家必すこの物及び毧氈を併せ敷く>と有ります。

恐らく宮廷絨毯時代や絨毯復興期1880年代から1940年頃までは高品質で有りましたが、戦後の1950年以降にケルマンでは手抜き絨毯の粗悪品も現れて急激に評価を落とした頃に5大産地が設定されたのではないでしょうか?
若しくは以前はイスファハン・タブリーズ・カシャン・ナイン・ケルマンで5大産地を形成していたのが1960年代~1980年代シルクの絨毯で成長著しいクムがケルマンを蹴落として5大産地の仲間入りを果たしたとか?考えられます。
歴史も知名度もあるケルマンが5大産地から抜け落ちているのは不思議なので色々と想像(創造)してしまいました。

*先のジーグラー商会はイスファハン州のスルタナバード(アラク)で1883年に創業された外資の大規模な織物・絨毯工房ですが、1930年代に国営イラン絨毯公社により国有化されますが、ジーグラーカーペットは今日でも評判が高く現在ジーグラーカーペットの呼び名でアフガニスタンやパキスタンでリプロダクションされて居ます。

 

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