驚く程親日的な国トルコですが、源流は中国(隋・唐)の歴史に突厥と言う名で登場するモンゴル高原の騎馬民族に有るとの事です。テュルクを漢字に当てはめて突厥だそうです。そんなテュルク系の一派が西方のアナトリアの地にも進出して現在のトルコ共和国に繋がっています。
アナトリアは古い歴史有る地域でヒッタイト(紀元前1750年~)、リディア、ペルシャ、ギリシャ、ローマ、ビザンティン、オスマンと言った帝国に支配された当にアジアと西洋の境目の地域です。
トルコ絨毯は色々な呼び名で登場します。古くはアナトリア絨毯やセルジューク絨毯、ウシャク絨毯として、近世はコンヤ・カイセリ・ヘレケ・ベルガマなどと地名で呼ばれたり、、、。エジプトのマムルーク朝時代の1400年代から1500年代初頭に掛けて花開いたマムルーク絨毯もテュルク系の移民が持ち込んだトルコ絨毯の一種と考えても良さそうです。
トルコは今にちもペルシャに次ぐ手織り絨毯の有名な産地です。オスマン帝国時代に支配したコーカサス地方の絨毯やバルカン半島のブルガリアやルーマニアなどの絨毯との繋がりも見られます。
キリム作りも有名でコンヤ・カイセリ・マラティア・ベルガマ・シャルキョイ・カース(カルス)などと言った地名で呼ばれてます。
特にオスマン帝国時代にドルマバフチェ宮廷の絨毯を納めたことから名声を博したヘレケのパイル絨毯は現在もトルコ絨毯の中で特別な存在です。トルコのシルク絨毯もヘレケにおいて19世紀にオスマン帝国の後援で始められたとの事です。
手織り絨毯の路-Carpets roadとも言えるシルクロードのアジアの西端トルコのイスタンブール(コンスタンチノープル)が13世紀の初頭に十字軍によって占領され大量の絨毯が、イタリアなどに持ち去られたのが皮肉にもヨーロッパでのトルコ絨毯の本格デビューと成りました。その後はヨーロッパやアラブ社会の憧れの品となって行きます。
トルコ絨毯もペルシャ絨毯と同じく10世紀のイスラム化と19世紀からオスマン朝の宮廷・皇帝の後援によって大きな影響を与えられたと考えられます。
織りはトルコ結び・ギョルデス結びなどと呼ばれる堅牢な左右対称結びでパイルは結ばれます。
素材はウールに加えて綿やシルクが使われる様になりました。
染料はヨーロッパに近く19世紀より化学染料がいち早く使われる様になりましたが、原点回帰の自然染料化に戻る動きも進んでいる様です。絨毯やキリムを作る地域の草地には染料の元となる植物を栽培している事も有ります。色は赤に緑・黄・青・黒といった鮮烈な物が有る一方、ヘレケやカイセリのシルク絨毯には色数少ない優しい色調の物も有ります。
今にちではイラン同様に物価高・織り手不足も否めないようで、多くの国内の人々も機械織り絨毯を使用しています。又、シルク絨毯にはchinese herekeやchinese kayseriも出回っているとの話は良く聞きます。絨毯は裏面や縁かがりをみたり各所のサイズを測ったりして手織りと機械織りや中国製を判別します。近年の機械織りはより精巧になって居り見分けも難しくなって居ります。
旅行のお土産にはキリムをお奨めします。サイズも小さい物から各種有り畳んでしまうと小さくなるので適しています。
デザインはペルシャ絨毯と共通の生命の樹・魔除け目・羊の角・幸運の鳥・ミフラブ・エリべリンデ(女の子)などのモチーフや花や植物柄なども用いますが、幾何学模様と鮮やかな色彩感覚のウール絨毯とカイセリやヘレケの上品なシルク絨毯が印象に残ります。
カッパドキア地方の交通の要所でもあるカイセリが多岐に渡る絨毯作りで今後トルコ絨毯の中心地に成るかも知れません。
忘れてならないのが、絨毯の先祖と言えるキリムです。トルコキリムは遊牧民の生活必需品としてテントのドア・屋根・壁・床に使われたり、馬や駱駝の背に掛ける飾り兼荷物袋の様に使われました。日本にも1980年代にはトルコの人々によって紹介されて日本にもキリム専門業者が沢山出来てキリムブームが訪れました。想うにまだ柳宗悦・濱田庄司・河井寛次郎らを祖とする民芸品を愛でる心が当時の日本人に残って居てとても珍しかった西アジアの民芸品キリムに虜にされたという面が有るように感じています。売るためではなく自分たちが使うために作られたアンティークトルコキリムには確かに格別の味わいが有ります。
お使い下さい!!手織り絨毯
フロムギャッベ
*シルクロードの突厥時代
6世紀から8世紀に突厥は東の中国王朝との絹馬交易(馬を渡して絹を得るという)を基にブハラを中心とする東西のシルクロード交易をソグディアナのイラン系商人ソグド人を後援して莫大な利益をあげていました。突厥はササン朝を悩ましていた遊牧民エフタルの侵入をイランと挟み撃ちして滅ぼし西方への足掛かりも掴んでいたようです。絨毯も交易産品の一つであったと思います。