米国とイランは1979年のイラン革命以来パーレビ国王時代と打って変わってギクシャクした関係が続いていますが、1920年代にはイランの中西部にある都市アラク周辺の町からアメリカ人好みの手織絨毯〈アメリカン・サルーク〉なる大ヒット作が産まれ盛んに米国へ輸出されていました。今では考えられない話ですね。
アメリカン・サルークは従来のペルシャ絨毯より若干色やデザインをアメリカン好みに合わせているだけなのですが、第一は赤の色です。真っ赤より少しワインがかったローズ色を好むようです。第2はメダリオン・コーナーの伝統的・複雑なデザインよりメインボーダーの内側のフィールド一面に小花や葉・花束を散らしただけの従来品より少しシンプルでモダンなものを好んだ様です。アメリカンサルーク以前の1900年頃からアメリカ人向けに筆による赤のローズ色への上塗りも行われていたようです。ちょっとした変化がアメリカ人の琴線に触れた様で、判らないものです。ただこの〈アメリカン・サルーク〉の大ヒットも世界恐慌以後に急速に勢いを失って行った様です。英国企業ジーグラー商会によって19世紀後半に始められたスルタナバード(アラク)から西欧へ・米国への手織り絨毯の輸出の隆盛も終わりと成りました。
アメリカン・サルークの時代から100年程経ちますが、現在もアメリカン・サルークを好む人々は居りアンティーク品を楽しんだり、インド・パキスタンでアメリカン・サルークとして復刻品が作られて居るほどで、絨毯のデザイン名として現在も使われています。
お使いください!!手織り絨毯
フロムギャッベ
*1800年代のスルタナバードは1930年頃より現在のアラクと呼ばれる様になっています。サルークはアラクの北方の村名です。
*ペルシャ絨毯屋をしているとイランの御出身やイランと日本のミックスの青年が時折店に寄って話をして行かれますが、イランの人々の手織り絨毯に対する誇りと言うか思い入れは世界一かと思います。絨毯を購入することは有りませんが、色々イランの現状を流暢な日本語で話してくれますので大事なお客さんです。今日もイランと日本のミックスの30代の男性が来店して20分程お話ししました。通訳をされている方らしくとても上手な日本語でした。来日15年と言っていましたが、お母さんが、イランで日本語を子供の時から教えていたのでしょう。米国の経済制裁でイランの経済状態は非常に悪いとの事で現在イランでの財テクは不動産か金かドルそして絨毯だそうで銀行預金は高金利なのにする人がいない様です。絨毯の値上がり率がそれだけ大きいとの裏付けでしょう。物価は上がって行くし若い人は織り手にならずに他の職業についてしまって、手織り絨毯輸出シェア第一位であったイランの輸出シェアはどんどん落ちてインド・中国などに抜かれて現在は5番目位かな~?と